フィンランドに生まれ、20世紀を代表する建築家であり、家具を手掛けるなど幅広く活躍したアルヴァ・アアルト。日本でも北欧の家具は人気を博しており、そう遠い存在ではない。そんなアアルトは今年で生誕120周年を迎え、日本でも大規模な巡回展が行われている。この機会に建築家アルヴァ・アアルトについて整理し、それを共有するためにこの記事をまとめる。
アアルトが生まれたのは1898年で、当時はまだフィンランドという国はなく、ロシアの領土であった。1917年にロシアから独立、第一次世界大戦などを経てフィンランドは東西の仲介役的な立ち位置を確立し、独自の北欧文化を築きあげる。アアルトが事務所を設立し、のちに妻となるアイノが入所しアアルトは夫妻ともに多くのプロジェクトを行う。1935年にはアアルトの家具と照明器具を生産する会社として設立した「アルテック」のチーフディレクターをアイノは努め、「アート」と「テクノロジー」の融合を目指した。第二次世界大戦後のセイナヨキで都市計画てまは、約20年の歳月を経てタウンホール、図書館、劇場の設計を行った。アアルトの死後になったが、二番目の妻エリッ)サのもと劇場の完成をもって都市計画は完了した。
-家具から都市計画まで幅広く活躍したアアルトの活動を年代ごとにまとめていきたい。
1920-1930
ヘルシンキ工科大学を卒業したのち1923年に事務所を開設するが、仕事がほとんど無かったアアルトは教会の改修を請け負ったり、設計競技に応募するなどの活動を故郷・ユヴァスキャラで行なっている。初期の『トイヴァッカの教会』(1923)では新古典主義の内装への改装を行なっているがヤムサの教会(1925)やユヴァスキャラの墓地礼拝堂(1925,1930)ではモダニズム様式が見られる。これらの2つの教会は実現しなかったが、実現したムーラメの教会(1926-29)やユヴァスキャラの労働会館(1925)には新古典主義建築の特徴が見られ、さらにはアアルトの尊敬していたアスプルンドの影響も見られる。事務所を構え、はじめの10年間は様々なところから影響を受け、試行錯誤をしていた時期であるといえる。
1930-1940
バイミオのサナトリウム(1928-1933)は設計競技の末、アアルトの案が最優秀に選ばれ、アアルト初期の代表作として知られる。四つの棟からなる建築であるが、採光面が考えられ、角度が振られている。ヴィープリの図書館(1927-1935)も同じく設計競技でアアルトの案が採用された。応募案では新古典主義の様式が用いられていたが、世界恐慌の影響を受け着工の遅れと用地変更があり、モダニズム建築へと大きく設計案を変更した。2つのずれたボリュームにより図書館を構成し、直径2mの円筒型のトップライトと音響に配慮した波打つ木造の天井が特徴である。
この時期の住宅としてマイレア邸(1938-1939)がある。アルテックの共同創立者である夫妻がクライアントのこの住宅では1階のオープンスペースに機能的な諸室が統合されている。
MoMAで開かれた1938年の個展と1939年のニューヨーク万国博覧会フィンランド館の設計を通して世界的にも広く知られるようになる。フィンランド館で用いたオーロラに見立てた曲線かつ傾きのある壁はアアルトらしさを持っているように思える。
1940-1950
1940年にアアルトはMITの教授に任命されるが戦争の影響もあり教師としての期間は長くはなかった。戦後アアルトはケンブリッジに戻りベーカーハウス学生寮の設計を行う。多くの部屋に日光を取り入れるために、全体がカーブし、チャールズ川を望むように建てられている。また、フィンランドではロヴァニエミという町で復興の都市計画を立てる。幹線道路が枝分かれする様子からトナカイの角と呼ばれた。実現こそしなかったが、のちにこの地で図書館や市民センターの設計を行うことになる。
1950-1960
サゥナッツアロという非常に小さいまちでタウンホール(1949-52を建てている。中央の広場とそれを囲むように四つの棟が建てられている。
タウンホールが建てられてまもなく、アアルトは湖の湖畔に実験住宅として知られる夏の家「コエタロ」(1952-54)を計画する。中庭を囲むようにL字型に建てられるが、開口部は変化に富み、様々な形・大きさのレンガとタイルがはめ込まれている。設計の中に実験を取り入れ、さらに彼自身の建築を前に進めようとした姿勢が見てとれる。この時期にルイ・カレ邸(1956-58)やフィンランド国民年金協会(1952-56)を行うなど、晩年期であっても小さい住宅から大きい公共施設を手掛けている。
1960-1970
アアルトはセイナヨキで教会(1958-1960)、タウンホール(1960-65)、市立図書館(1963-65)を行うなど5万人ほどの小さい町で、その中枢となる公共施設を建てている。セイナヨキの劇場はのちに1987年にアアルトの死後に完成する。他にもロヴァニエミで図書館(1965-68)の設計やアメリカのオレゴンでマウント・エンジェル修道院図書館(1970)を建てるなどアアルトの代名詞でもある図書館建築を設計する。場所は違えども図面を見ると人が集まる場所などの作り方はとても類似していることが分かる。
1970-1980
アルヴァ・アアルト美術館(1971-73)を故郷であるユヴァスキュラに建てる。斜め天井やハイサイドライトなどこれまでの作品でみられた手法が詰まった美術館で、手摺や階段などのディテールが今まで見たことのないアアルトならではの美しい収まりになっている。リオラの教区教会(1975-78)やエッセンのオペラハウス(1959-88)などイタリアやドイツなどフィンランド以外のプロジェクトも行うがその完成を見ずに1976年にアアルトはこの世を去ってしまう。
アアルトは多種多様な機能を持つ建築を生涯を通して創り出しているので、全体を俯瞰してみるとその変化を見出すことで時代背景と重ねて設計手法がどのように変遷してきたかがよくわかる。
アアルトのような建築家は多くの展示会を行うので、その度に作品を振り返ることが出来るのはとても良いことだと思う。
コメント