o+hは、若手と括られる建築家の中でも群を抜いて多くの作品を公共・民間、大小問わずに生み出している。今回のTOTOの展覧会の名前にもなっている「生きた全体」という言葉は、20世紀前半のイギリスの詩人T.S.エリオットによる「生きた全体- a whole living」という言葉が参照されている。エリエットによると、詩という概念は、新しく生み出される詩は、過去によって導かれながらも、新しい詩によって過去さえも変化し、新しい詩を含めて新しい複合的な概念となり、伝統が成立すると説きました。o+hにとっても、建築は、多様な背景を持つ利用者や地域の人々、建築が建つ土地の歴史や風俗など、文化のバックグラウンドにも深く耳を傾けながら建築をつくりあげています。
こうした建築に対する姿勢は、o+hが単に設計活動を行うユニットなだけではなく、教育活動・出版活動・イベント・ワークショップなどの活動を日常的に行っていることに顕著に現れていると思う。
〈浜町LAB.〉として、事務所オフィスを地域に対して開くと、時には町の子どもたちと交流する場になる。そうすると、普段の設計活動では関わることのない、地域の人々や子どもたちと交流することとなる。例えば地方で、学校の設計を行う際、ワークショップを行い、設計するものに対して意見などを拾うワークショップを行うことがあると思う。そうしたワークショップは、地域に出向き共に建物を作り上げる意味で大きな意味を持つが、〈浜町LAB.〉で開かれるワークショップには、また異なる質を持っていると思う。設計者として出向く地方のワークショップでは、当然設計に関わる当事者ではあるが、地域からするとどうしても外部から来たひとになってしまう。それに対して、〈浜町LAB.〉ではo+hが主催していながらも地域の一員であり、ともに地域を構成している。浜町と地方での違いは、地域に定着して積み上げてきた年月の違いによるのかと思う。
一方で、建築は一度建てられると、何十年もの間その地で、町の風景を作り、利用され、人々の居場所になる。設計者が誰であるかというのは、普段は意識されず、周囲の建築物と同等の存在となる。当然、その建物が建てられた後に生まれた子どもや転入した人々にとっては、その建築物がある姿がその地域の姿ということになる。だからこそ、建築をつくるうえで、その全体に対して責任を持つことは設計者の当然の義務になると思う。義務というと固く苦しいが、伝統を作っているという意識が、o+hの「生きた全体- awhole living」という言葉と作り上げたこれまでの多種多様な建築から見られると思う。
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