今年から東京藝術大学の教授に就任された青木淳さんのレクチャーを聞きに来ました。青木淳さんはこれまで大学で教授の依頼があっても断り、東京藝大なら受けても良いと考えていた経緯があっての教授就任でした。
今回のレクチャーは事前のアナウンスでは定員180人でしたが、通路や立ち見など人で溢れかえっており、人を惹きつける力の強さを感じます。
レクチャーのテーマは「表面の論理」で、青木さんがこのテーマを考えるきっかけとしては師匠の磯崎さんの影響が大きいそう。藝大にいる期間の間、腰を据えて考えていきたいこととしてこの「表面の論理」があり、青木さん自身もまだ答えを探る途中だそうです。まず、例に挙がった磯崎さんの『大分医師会館新館』では構造と仕上げの話をします。60年代の民衆のための建築をつくるリアリズムが限界を迎え、70年代は社会から”切断”して、社会にこたえるというフォルマリズム宣言をした時代。「作っているのは誰であってよく、作者は隠れる」という言葉は印象的でした。
Led zeppelin
次にLed zeppelin のドラムJohn Bonhamについて。ロックバンドのドラムの在り方も模索し、他のドラマーにも他大な影響を与えた人物。ロックバンドでありながらより商業的な活動をし、青木さんも影響を強く受けた人物だそうです。
宮川淳
表面について美術評論家の宮川淳さんの「紙片と眼差とのあいだに」という書籍を取り上げる。見ることそのもの、見ることの厚みを表面と呼ぶというのは青木さんの考えをしるうちでとても重要なことだと思いました。この本ではレヴィ=ストロース、スーザン・ソンタグ、マルセル・デュシャン、ミシェル・フーコー、ジル・ドゥルーズなどそれぞれの余白にという章立てで書かれておりとても興味深いです。
その次には「鏡・空間・イマージュ」という同じく宮川淳さんの書籍を取り上げ、鏡・見ること・距離について語られました。「距離が固まるのが鏡、見えないことの不可能性でイマージュである。」という言葉はとても気になりました。宮川さんの言葉はモーリス・ブランショの言葉を引用しているもので、「見ることのイマージュと書くことのイマージュは異なり、書くことは見ることの切断である。」という考えはもっと深く考えたいと思います。
マレーヴィッチ
white on white は絵に対して外部を持たず、見えないものを描いているものです。マレーヴィッチを紹介することで、青木さんの興味が見えるものと見えないものにあることが分かりました。マレーヴィッチの模型はそれ自体が建築で、スケールが重要かは分からないが、増殖することでどんどんと展開できるもの。見えるものを等価に扱うことの意味を知ることが、重要になってくるのかなと思います。
ぼよよん,青森県立美術館
2011年に展覧会を行う予定だった「ぼよよん」も表面の論理を求めているもので、全体が表面であることが大事だといいます。赤い構造体に対し、一見構造体に見えるほうは支えるだけです。構造体-仕上げをという構成するものとしては変わらないものを表面として、レイヤーの重なりとしては同義に扱うかうことを意識していると思いました。これは、青森県立美術館でもレンガとGRCを白く塗り同義に扱ったり、民主的に扱うことを実践しています。
質疑応答の中で、「外皮≠表面で見えているもの=表面。出発点としては構造、設備、インテリア、仕上げなどが等しく扱われるうえで表面として認識されるルールがある」という言葉が青木さんがこのレクチャーを通して伝えたかったことを端的にまとめてあるかなと思いました。来年度から本格的にはじまる青木淳研究室の活動は楽しみになるレクチャーでした。
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