隈研吾教授最終連続講義 第五回「緑と建築」 @安田講堂

今回の隈先生の最終講義は、前回から1か月以上が空いての講義で全10回の内折り返しの5回目の講義でした。造園の専門家である進士先生と涌井先生を招いてのレクチャーでこの最終講義の分野の多様さを感じるものでした。

「造家」と「建築」

「造家」という言葉を伊東忠太が「建築」に改めて以降、「建築」と「造園」の関係性が変わってしまった話や「造園」の持つ意味も時代の変化によりガーデニングや庭いじりと混同されている話は興味深いものです。緑の持つ価値は変化することにあるとしゴルフ場の人工芝な時間による変化がない、生命を持たないものには元々の造園としての意味を持っておらず、造園を考えるときにはそうした時間を考える必要を感じました。建築に用いられる木材も時間が停止している訳ではなく、時間によって変化をし、むしろその変化によって経年劣化するのではなく時間によって良くなるための工夫を考えたいと思わされました。

良い造園の例として隈先生の手掛けた作品もあるポートランドの庭園が取り上げられていました。海外にも600ほどの日本庭園があるが、どうして海外の庭園は日本人の思い浮かべる庭園とは程遠いものになりがちである。何かが違うなと思うことが多い。しかし、ここの庭園は高く生い茂った森に囲まれていることで、日本人の原風景として思い浮かべる庭園に合っているといいます。以前、ポートランドのJapanese Gardenを訪れたときはまだ隈先生の建築は工事中だったのですが、日本庭園はすごいしっくりくるものだったのを覚えています。

人の手が加えられた風景だけでなく、人の手の到底及ばない森が背景にあることが日本人にとっての庭なのではと思うようになりました。

夏休み中に参加したあるインターンで「広場」を考える機会があり、その時には”日本人にとっての”という言葉が頭につくと表されるものが大きく変わると感じました。ヨーロッパ的な広場は美術館や教会などの前に広がるものが広場であり、そう考えたときに日本的な広場は寺社と森の前に広がるものという大きな違いがあることに気づきました。広場については今月の建築討論でも特集されており、個人的にとてもタイムリーな話題でした。

庭園も日本と海外では大きく違うことをこの講演で何よりも実感しました。「完成」という言葉を使わず「概成」という言葉で表現する日本的な感性は大事にしたいと思います。

この講演ではほかにもポストモダニズム論を成長や時間などを通して貴重な話を聴けた良い機会でした。

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