長谷川堯著の本書は、建築家がどうあるべきであるかを示してくれるような書籍だと思っています。代表作に<豊多摩監獄>がある、大正の建築家である後藤慶二を中心に建築家がつくる空間について語られます。
建築をつくる場合にぶち当たる無数の法則はそのうちに矛盾するものもあり、「妥協」したり、一つの法則を残し他を「無視」するなどして解決します。しかし、外部の法則から律されている場合は撞着からは逃れられず、これから脱するためには自己の充実が必要であるという主張です。
この後藤慶二の生きた、国家主義の「明治」とモダニズム・ポストモダニズムの「昭和」の間の「大正」という時代であるからこそ起きた思想であるといえると思います。辰野金吾をはじめとする正統派の明治建築にたいして反明治的な「大正建築」は形態的に、平面性と空間性の尊重が基本になっています。
辰野金吾は、この時期の「自己主義」は危険な思想にもなりかねず、構造+美術=建築という彼の持つ「明治」特有の図式の元で「大正」建築は理解できないものでした。国家的な建築は神殿として象徴され、それに対して個人や生活に結びつく監獄が位置付けられます。明治→大正→昭和という建築界の主流に対した各建築家の思想は、社会の変化よって変わる「社会性」によって受けられるかどうかが左右されるのかなと感じました。
「建築家は監獄づくりでないといけない」という言葉が差すように、獄舎空間は都市の本質に近いものであり、身体と同一になり身体化されるものであるからこそ、この言葉の意味の重さを理解することができます。
また都市と国家についても多く言及され、<都市>と<国家>は歴史的に対立する2つの極性として捉えられています。<都市>の発達は<国家>を衰退させ、成長する<国家>は多くの<都市>を解体していく過程で固められていく。そうした原理のうえで、グリッド・プランは<都市>を武装解除するのに適したもので<国家>にとっては魅力的なものである。こうした言論から<都市>と<国家>の関係性は、建築を学ぶ上で欠かすことのできないものだと言えるとおもう。
そうした意味で、監獄は反<国家>的な人を収容するもので日常性が反転したものである。本書は獄舎を作る後藤慶二とその中に投獄された大杉栄の両者の言説を読み取っており、作り手と使い手という建築に関わる大きな2つの視点からまとめられとても興味深いものでした。都市の日常性・監獄の非日常性これを考察することが建築の設計に大きく結びつくのではないかと感じました。
コメント